1/16のまちの保健室(平等と公平)

本日のまちの保健室では、職場で与えられた任務にイマイチ腑に落ちない感があるとアウトプットしてくれたお仲間がいました。

 

職場内での求められるスキルを認めて貰っての任務なので、喜ばしいことではあるのですが、どうして納得感が得られないのか…。

 

そこには、誰もが持つ「人は平等であるべき」という考え方があるからではないかと推測しました。

 

ここで、少し寄り道したいと思います。

 

福沢諭吉は著書『学問のすゝめ』で、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』を、平等をメッセージとした言葉と解釈している人が多いのではないでしょうか?

 

実は、正しい全文は『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり』なのです。

 

‘と言へり’とは、「と言われている」という解釈で、この名文は福沢諭吉が何かをパクったことが伺えます。

 

ひとつの仮説として、アメリカの独立宣言の序文『すべての人間は、生まれながらにして平等である』を意訳して引用したと言われています。

 

実は福沢諭吉は「人は平等である」ということを伝えたかったのではなく、現代で言うならば切り取られたメッセージが独り歩きした状態なんです。

 

「人は平等である」と言いつつも、『、と言へり』の後に続く内容を要約すると、賢い人と愚かな人、富んだ人と貧しい人、身分の高い人と低い人がいて、現代で言う「格差」が生じていますと続くのです。

 

この「格差」を埋める手段、「格差」を生じないようにする施策として、「勉強しましょう!」と言うメッセージが、『学問のすゝめ』で福沢諭吉が伝えたかったことなのです。

 

話を元に戻しましょう。

 

認められたスキル任務が、どうして納得感が得られないのか…。

 

そこには「平等」と「公平」の価値観が大きく関わっていると感じました。

 

「平等」とは、みんなが同じように扱われることを指します。

 

「公平」とは、それぞれの状況やニーズに合わせて、適切な対応をすることです。

 

まちの保健室では、向こう側の景色が見えない高い壁の前に3人の背丈の違う子どもが居たとして、この3人に同じ高さの台を与えてることを「平等」の例えとしました。

平等の台を与えられた3人の子どもは、壁の向こう側が見える子も居れば、見えない子も出てきます。

 

3人に、壁の向こう側が見える高さの台をそれぞれに与えてることで、全員が壁の向こうの景色が見えることを「公平」の例えとしました。

 

仕事のスキルは、人によって違いがあります。

その違いに応じて役割を与えられた状況だったのだと思いますが、「平等に扱われていない」という意識を持ってしまったことで、納得感が得られなかったのではないかと思いました。

言い方を変えれば、職場において「公平に扱いを受けていた」と言うことになります。

 

職場や日常生活においても、みんなが幸せに過ごせるように、お互いを思いやりながら、「平等」と「公平」の違いを意識してみると良いと思います。

 

そして、福沢諭吉の『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり』の解釈を学んだあなたは、ぜひ「まちの保健室」で一緒に勉強してみるのはいかがでしょうか。

 

いつでもあなたのご参加、お待ちしております。